
新会員卓話(橋本善寿氏)
私は船引の要田にて昭和40年に出生しました。高校まで船引におり、卒業を機に須賀川の包装資材を作っている会社に就職しました。入社後4年間はトラック配送の部署にてベニマル様やライフフーズ様に食品トレーやラップなどを卸しておりました。その後23歳から30歳まで営業職につき様々なお客様と携わってきました。在籍期間で印象的だったのは、当時給与は手渡しだったのですが、専務がお金を渡す際に頑張っている人をちゃんと見ており、寸志として別に渡してくれていたことでした。先代の社長が交代したことを機に独立しました。独立後包装用資材を仕入れて、加工販売を行なっていましたが、信用のない中での仕入れが一番大変でした。仕入れができなけば商売は成り立ちません。私は物を売る営業よりもその環境の中で仕入れを行うことの方が難しいと思っています。また仕入れ先へはまとまった供託金や、現金払いなど大きな金銭的な足枷があり独立後2、3年はとにかく苦労しました。一般包装用資材の他に農業資材や機器などを扱っていく中で倉庫を確保するために今のカルチャーパーク近辺の土地を購入しようとしていたところ、この一帯は農業用地につき一般の人は買うことが出来ないと分かりました。そこで農業はやれば手に入るのではないかと考えたことが今のきのこ栽培のはじまりです。農業用地を得るためには金銭面はもとより人を選別するために面接が課せられます。面接官に農業を40年やっているが儲からないとの話をされた時に、俺が利益を出してやると闘志が宿りその言葉で面接合格を経て、農業の世界に足を踏み入れました。こちらも最初の5年間は大変苦労しました。特に設立2年後に発生した震災が一番の山だと思います。放射能による風評被害で作った物が売れないこともさることながら、きのこ栽培は農林水産省の管轄ではなく、かつ、これから伸びていく商売で、前年の実績がないため震災保証をほとんど受けれない状態でした。保証を当てにして、一生東電にたかるのか自問自答した上で自分でなんとかするか道を選びました。今では栽培を続けていく中で利益を出し続けています。首都圏などにも毎日1t近くを配送しており会社の1/3ほどの売上割合に向けて邁進しています。しかし汚染水海洋放出問題でまた福島の風評被害が再燃しないか心配です。会社設立28年、今58歳になりますが、3年前に心筋梗塞が起こってしまいました。一命を取り留めていますが早く後継を育てて引き継ぐ準備をしなければと思い、長女の旦那が会社に入社して今に至ります。本日はありがとうございました。近くお寄りいただいた際にはお気軽にお声掛けください。
クラブ協議会〜各委員長活動方針発表
出席報告
会員数
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出席者数
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欠席者数
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出席率
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前回修正率
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前々回修正率
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53名
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30名
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23名
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56.60%
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60.38%
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54.72%
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